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奇   知   外   記

奇  知  外  記

天一国・天聖経 - 第1篇 神様 - 第3章 - 創造主であられる神様

第1篇 神様

第三章 創造主であられる神様

第一節 神様の創造

1 宇宙は、単純に物質に根源があるものであったり、自然発生的にできたりしたものではありません。宇宙の第一 原因者であられる創造主、神様はいらっしゃいます。そのお方は絶対者であり、永遠不変であられ、善であられます。宇宙万象は、そのお方の基本設計である創 造目的によって造られた被造物です。心情の本体であられる神様の創造目的は、喜びを享受されることです。しかし、喜びは一人では感じることができません。 ある主体が喜びを感じるためには、必ずその対象の実体が必要です。喜びの中でも最高の喜びは、主体と対象が愛を与え合うときに感じるようになります。

2 宇宙は本来、一つのみ旨の中から生じました。この宇宙を中心とした天の父母様がいらっしゃって、その父母に由来して今日の、この被造世界が生じました。 宇 宙の父母である中心存在が神様です。ですから、存在世界と神様、「私」と神様は二つではなく、一つです。一つは、中心の位置に立つために、上から地に向 かって垂直線で下りてきているのであり、もう一つは、平面の水準を通して中心と結びつこうとしています。そのような神様のみ旨があります。

3 神様が最初に天地を創造される時、この天地と御自身の内的基準と、永遠の関係を結ぶことを願われる宇宙観と創造理想と創造目的がありました。そのようなも のの中心は、正に神様の心情でした。宇宙の根源はあくまでも神様自体ですが、宇宙の創造という現象を起こすようにした最初の根拠は神様の心情であり、その 心情を中心として一体化することのできる理想圏がありました。

創造とは何か

4 アダムとエバは神様の体であり、見える神様 です。アダムとエバは見える神様の立場です。神様はエネルギーの本体なので、霊界に行っても見ることはできません。体がありません。ですから、実体世界を 指導し主管するためには、実体をまとわなければなりません。アダムとエバは、堕落せずに完成して地上で生きて天上に行けば、形状をまとった神様になりま す。見えない神様と、見えるアダムとエバが一つになるのです。そのようになれば、アダムとエバが「ははは」と笑うのは、神様が「ははは」と笑うことなの で、それは正に宇宙が「ははは」と笑うことです。無形の神様が実体をまとった神様として登場するためのものが、被造世界の創造です。この世界を創造したの は、無形の神が実体の神様として登場するためなのです。

5 神様は人の母体であり、万有の核です。なぜあらゆる存在の核であられる神様が天地 創造をされなければならなかったのでしょうか。それは、核が一人だけでは核自体が滅びてなくなるからです。電気で言えば、いくら完全なブラスだとしても、 プラスだけがあってマイナスがないときは、「なくなるな」と言ってもなくなります。そのプラスがなくならないためには、なくならない原則に従わなければな らないので、創造の役事を経て完全なマイナスが生じるのです。それは、互いが与え合うことで、初めて存在が決定されるからです。

6 天地万物 を創造された神様は、その内的な心の世界で感じるあらゆるもので、外的な世界に完全な対象の実体を立てて、それと共に与え合うようになります。責任をもつ ことができる位置で、完全に与え合える対象を造っておこうとして造ったのが人です。ですから、神様が造られた被造万物の中で最も好むのが人です。また、人 が最も好むのは神様です。神様を尊重するのです。ですから、人は神様を訪ねていくようになり、神様は人を訪ねていくようになるのです。

7「神様が主人だ。天地を創造した創造主だ」というとき、その創造主という言葉は、根源を意味する言葉であり、主体を意味する言葉です。創造物は対象だと い うことです。画家で言えば、自分の傑作を作ろうと構想したとすれば、その構想どおりにそのまま展開させて気に入ったものができなければなりません。気に入 るということは、目で気に入り、鼻で気に入り、耳で気に入り、口で気に入り、無数にある自分の細胞まですべて和合して気に入る、ということです。それは全 身が気に入った存在なので、自分の体を身代わりにしたものです。そのように見れば、心と体は本来一つになるようになっています。私たちの霊人体は霊的な五 官をもっていて、肉体も肉的な五官をもっていますが、これが互いに和合して、理想的な和動が広がらなければなりません。それは食べることで広がるのではあ りません。体と心の和動は真の愛によって始まるのです。

8 神様は天地を創造した主体です。その主体であられる神様は、息子、娘である人類と 向き合っていらっしゃるお方ですが、「人間のために私はいる」と言うのが原則です。そうだとすれば、人間は幸せな人になるのです。それ以上、望むものはあ りません。この原則は、私たち人間が本来もつべきものでしたが、もつことができなかったので、最高のものを望んでいます。その最高のものが神様の愛です。

9 創造は、根対的存在を造ったということです。本来、神様が力を大量に投入したのは、神様御自身のために、神様が良くなるためにではありません。自分が良く なるためではなく、先に相対を造るために苦労しました。先に投入して理想相対の追求という表題のもと、すべての天地万物を造っていったというのです。

10 存在と生命のうち、どちらが先でしょうか。哲学というものは、存在から始めるようになります。初めから生命を扱えません。それでは、生命はどこから出て く るのでしょうか。生命は独りで自ら出てくるのではなく、父母の愛から出てきます。生命の世界と愛の世界は、神様が管理する世界です。それ以下のものを扱っ てきたのが哲学思想です。ですから、存在よりも生命が先です。存在を動かすのは生命です。生命を動かすのは何でしょうか。愛だけが生命を動かすことができ ます。愛によって出発したので、愛の関係に従って動き、愛の結果を訪ねていくのが生命の行く道です。このように、情緒的な問題が宇宙創造の根本です。

11 いくら偉大な神様だとしても、愛の情緒を感じられない立場なら、孤独な神様です。ですから、猫でも懐に抱き、「私は猫をうまく作ったな。私が耳をこのよ う に作ったとき、気持ちが本当に良かった。この足の爪も、ねずみを取って食べやすいように、このように作ったのだ。はっはっは、気持ちが良い」と言わなけれ ばなりません。その良いというのは、情緒的な動機を中心として、あらゆることが関係しています。

12 神様は、今も創造の能力をもって、古い 環境を片づけて新しい環境をつくろうとされます。そうすることのできる能力をもったお方です。それが不可能なのは、堕落圏だからです。ある条件の提示が成 立しなければ不可能です。それでしないのであって、できないのではありません。環境的条件さえ提示され、天が活動できる内容さえ提示されるようになるとき には、新しい歴史は、新しく創造される環境は、いつの時でも、どのような時代でも連結することができます。創造当時の神様も、歴史過程を経てきた今日の神 様も、未来の神様も、創造主としての権限は、いつももっています。

13 神様が創造するときに、神様のみ旨がありました。神様の考えがありま した。神様の考えとともに計画がありました。人間を創造して、これこれこのような人間世界を造ろうという、本来の神様のみ旨と計画があったというのです。 ですから、いくら人間が堕落したとしても、今日、神様の救援摂理圏の人間は、神様のみ旨と計画圏内に立たなければなりません。そうでなければいけません。 ですから、神様は、人間を御自身のみ旨と計画圏内に入れるように準備されるのです。神様の計画とそのみ旨を中心として、環境と与件を開拓しながら、人間を 計画圏内に立てるために前面に立てたのが、歴史時代に現れた数多くの宗教です。

完全投入を通した創造

14 神様が天地万物 を創造されるとき、なぜ人間を造ったのでしょうか。相対がいない神様としては刺激を受けることができないので、相対を造って理想の愛と生命と希望の刺激を 感じるために造りました。聖書で見るように、神様が人間を造るとき、「おい!人よ、現れよ」と言って簡単に造ったのではありません。神様は、あらゆる生命 と愛と希望を懸けて人間を造りました。結局、神様と人間の関係においては、投入という言葉、無条件投入という言葉、全体投入という言葉を語ることができま す。ここから、神様が真の愛を成すための方向性を探ることができます。相対に一〇〇パーセント投入したのです。投入する過程は、神様自体の消耗です。しか し、完全投入したという日には、問題が異なります。一〇〇パーセント投入して完成する日には、百を投入したものは百のものが完成して、そこに相対的な愛が プラスされて神様に帰ってくるというのです。ここに相対的な愛の権限、相対的な特権の価値、自分が投入したすべての内容がブラスされて登場するようになる のです。そうすることで、神様は初めて刺激的な幸福を感じられるというのです。

15 父母は愛する子女に対して、全体を投入しようとします。 神様と同じです。神様は、神様のために投入したのではありません。神様のために存在するのではなく、相対のために存在しようという、相対のための神様の位 置に立とうというのです。神様が神様のために存在しようといえば、それは真の愛ではありません。自分をすべて子女に投入して、その子女と共にいようとする ところにおいて、愛と生命と希望が成り立ちます。結局、真の愛と真の生命と真の希望をもったそのお方が最初に人間に与えたいと思うのは、真の愛と真の生命 と真の希望です。それを与えるときに、自分の立場で与えたのではなく、相手の立場に立って与えたというのです。

16 真なる神様は、相対を造 るときに、完全投入することによって、より価値のある理想的な完全形を展開したのです。神様は、アダムとエバを造れば、アダムとエバのために生きようとす るのです。神様のためではありません。自分のためにいた時から、相対のために生きる時へと展開していくのです。理想的存在というものは、自分を中心とはし ません。理想的存在は、他のために生きるところに、対象のために生きるところに存在します。この原則が字宙の根本です。

17 聖書では、神様 は全知全能なので、言葉一つで、「このような天地になれ」と言ってそうなったとあります。しかし、そのようにはなっていないのです。神様は、あらゆるもの を投入したというのです。もっている力をすべて投入しました。もっている愛の力をすべて投入して、未来に、御自身の愛する息子、娘、御自身の愛する家庭の ための贈り物として万物を造ったというのです。

18 創造とは力の投入を意味します。この世の中に芸術家がいるなら、その芸術家は傑作を作る ことを願います。芸術家は、傑作を作るために、ありとあらゆる思いと精誠を投入します。すべてを投入するところからのみ完全な傑作が生まれます。不完全投 入ではありません。完全投入、それ以上できないというときに初めて傑作が生まれます。精誠を尽くさず、血と肉を投入していないものを愛することができます か。「私」の骨の中の骨であり、肉の中の肉であり、私の思想の中の思想であり、私の全体の中の全体を投入したので、希望の対象とすることができるのです。 ですから、創造自体が投入から始まったというのです。力を投入しなければなりません。力を投入しなければ何も生じません。完全な投入をするところで完全な 対象が成立するという原則を中心として見てみるとき、神様は主体として対象に対して完全に投入したというのです。神様御自身が自らのために存在するのでは なく、対象のために存在するという運動を始めたのが創造の役事です。

19 万物を創造するということは、自分の本質を取り出すことです。結局 は、エネルギーを投入したということであり、エネルギーを投入したということは自分の本質の投入を意味するのです。投入するのです。対象を創造する理念の 世界は愛によってなされたので、そのみ旨を成し遂げるために神様は投入されたのです。投入するのは、それが自分に結実するようにするためではなく、相対に 結実させるためです。ですから、愛で造りました。それで、投入して神様が願うことを感じるのではなく、満足を感じることができたのです。それが原則になる ことによって、愛の伝統においては父母の愛の本質が残りました。自分を投入して自己意識を感じるのではなく、自己意識を忘れて、より相対的な目的が成し遂 げられる価値を追求することに、自分のすべてが吸収されていくのです。結局は、神様も創造した人のために生きる立場に立つということです。それが創造の原 則です。

20 力学世界では、入力が出力より大きいのです。しかし、真の愛の世界は、入力が出力より小さいのです。ですから、これが平面に展 開して永遠の宇宙が存在するのです。消耗すればすべてなくなります。運動するからです。しかし、無限に投入する愛の力が作用するので、消耗なく大きくなる のです。神様が、愛を中心として存続する立場に戻るのです。反復作用によって循環作用を継続する形態をもって、永遠に存続するようになっています。ですか ら、家庭から氏族、氏族から民族、民族から世界まで同位、等価の基準で拡大し、一人の人間の頭で構想した宇宙のように、人類と宇宙を、合性体と同様に、理 想世界、統一世界、平和の一体圏、統一圏にすることができるのです。

原則と法則による創造

21 神様は、アダムとエバには 相対的立場で命令され、相対的な立場で信仰の条件を見て彼らに対されましたが、これからは実体を求められるようになります。ですから、相対的な立場ではな く、「私」の心と体が一体になることによって、自分の一つの実体を求めなければなりません。このような実体を求めるためには、創造の法則を通さなければな りません。

22 聖書を見ると、天地を創造したことが簡単に述べられています。み言によって天地万物を創造したというのです。「おい、何々」 と呼べば、「はい」と言って現れたというのです。「星よ、生まれよ」と言うと星が生じ、「地球星よ、生まれよ」と言うと生じたということになっています。 しかし、ここにおいては、無限な秩序と法度に従って前進するという原則を継承させ、小さなものから大きなものへと発展させてきたのです。

23 人間の生活の中で、ために生きる真の愛があらゆる相関関係の基本ですが、これは父母の真の愛を動機として体恤するものです。神の真の愛を根とした父母の 真 の愛は、人間の個体を完成させるようになります。完成した個体が真の愛の理想的な夫婦となった家庭において、彼らの子女に真の愛を伝授するようになるのが 創造の秩序です。地上の理想世界は、完全な一人から、真の愛による家庭、社会、国家、世界に拡大していきます。

現在の世界は、このような理 想世界とは、その出発を異にした世界です。神様の創造原則のうち、最も貴い真の愛の秩序から人間が離れた、堕落の結果が拡大してきた世界です。神様の創造 秩序を度外視したまま、人為的な組織形態や法則、秩序だけを重視する現在の世界は、理想的な個人、家庭、そして民族を養成することはできません。

24 神様は、天地を創造されるときに、万物を造られ、人を神様の対象として造られました。対象として造られたのですが、授け受けする授受作用の原則が天地の作 用として、運動法則になっているので、すべてを完全に与えるまでは戻ってきません。これが原則です。妻が夫を完全に愛そうとすれば、夫から完全に愛された というその日になってこそ、「夫を本当に愛そう」このようになるのです。完全に愛されるようになるときに、完全に与え始めるのです。それが天地の原則で す。主体から完全に受けてこそ、完全に返すのです。それを受ける前に返し始めれば、完全なものは戻ってきません。それが愛を中心とした授受作用、原理原則 を中心とした宇宙の原則です。

25 神様の創造過程を中心として見てみると、三段階の原則があります。先に神様の考えがあり、その次に心を通 してその考えを現し、その次にそれが実現します。そのような三段階を経て創造物が形成されたのです。もちろん、み言を実践するに当たっても、心だけではで きません。そこでも、やはり神様を中心として神様の心と神様の体が一つにならなければなりません。そうして「このようになれ。このように創造されるのだ」 と言うとき、初めて創造が実現するのです。

26 神様の創造過程を見ると、最初に極めて小さいものを造るその動機から相対的観念をもち、目的 を具現したその目的体に新しい動機を加え、より大きなものに発展させてきました。そうして、その段階を高めて目的に動機を加え、相対的観念を加えて目的を 具現し、またその目的が動機となり、だんだんと次元を高めて人間まで創造してきたのです。

27 神様が創造主として、歴史的で内情的な原則を 中心として、存在の起源から今まで成長した過程を、実体的に展開してきたのがアダムとエバの創造過程です。それでは、どこから連結されるのでしょうか。細 胞が一つになって大きくなるのと同様に、赤ん坊が十ヵ月間の成長過程を経て、男性と女性の形態に分かれていくのと同じではないかというのです。そうでなけ れば、生命の遺伝をどのように展開させるのかという論理に対して、解釈する方法がありません。言い換えれば、主体には相対圏が必要だということです。統一 教会の言葉で言えば、性相には形状が必要だということなのです。

28 内的な性相は、あらゆる根源的な面において外的な形状と一致することも でき、通じることもできる関係があります。ですから、人が生まれて育つその過程は、見えない無形の神様が実体を見るためのものだったのです。ですから、自 分の内的なあらゆる存在が表現されるので、愛さざるを得ないというのです。それが「私」です。「私」が現れた実体です。無形の実体が有形の実体として展開 される以上、そこにすべてを投入しなければなりません。

神様の臨在と顕現

29 神様は、どこにとどまりたいと思われるので しょうか。アダムとエバが堕落しないで完成し、真の愛を中心として一つになるとき、神様はそこに臨まれます。結婚した日に初愛が植えられる、そこにおいて 中心となって出会おうというのです。神様の血と愛と生命を、どこに植えますか。内的なものと外的なもの、プラスとマイナスが同化して一体にならなければな らないのです。ですから、初愛が最も貴いのです。縦的な永遠の愛の主人が神様であり、横的な永遠の愛の主人が夫婦です。

30 神様は、神様と 人間が主体と対象として縦的な愛の関係を完成することだけを目標とされたのではありませんでした。縦的な愛を完成して、アダムとエバの横的な愛の結実をも たらそうとされました。その瞬間が、正に内的父母であられる神様が、外的父母であるアダムとエバと完全一体となるために臨在される愛の理想成就の瞬間で す。無形の父母であられる神様が、アダムとエバの形状をまとって有形世界に永存する父母になるのです。この時、アダムとエバは真の父母、真の先祖になるの です。

31 神様が天地を創造されるときには、復帰は必要ありませんでした。神様が創造本来の世界でアダムを中心として願ったことは、今日、 復帰すべき世の中で待ち望む願いとは本質的に違います。アダムとエバを創造したすべての願いは、何よりもまず神様御自身を顕現させることでした。言い換え れば、アダムとエバを通して神様の内的な要素を外的実体として展開させ、神様が願われる遠大な希望と人間の願いが一致した一時を迎えることを願われたので す。

32 神様が被造世界を造られた目的は共に生きることですが、今日、人間と万物、あらゆる存在物が神様と共に生きることができる圏内にい ません。堕落によってそのようになったのです。堕落したために、神様が臨在できる根拠地が消えるようになったというのです。そうだとすれば、神様がアダム とエバを失ったその日から今日まで、人間を探し求めるのは何のためでしょうか。それは、人間が神様の宮になり、神様の体になり、神様と一体となって、天と 地を身代わりした一つの実体存在になれば、人間の喜びが神様の喜びになり、神様の喜びが人間を通して万物に連結されるからです。すなわち、人間が神様と万 物を結びつける中間媒介体だからです。


第二節 神様が創造された被造世界

1 創世記第一章二十七節を見ると、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」となっています。帰納的 に見ると、神様の中には一人の男性と一人の女性がいるということです。それが一つになって、一つの主体として現れたお方が神様です。そして、このような性 稟に似て現れたのがアダムとエバです。

二性性相の中和体としていらっしゃる神様

2 神様は二性性相の主体としていらっしゃいます。無形の二性性相の主体としていらっしゃる神様の男性格の内的性稟を実体として展開して、相対的に造った ものがアダムであり、女性格の内的性稟を実体として展開したものがエバです。言い換えれば、神様の内性的なすべてのものを投入して実体化させたものが人間 だということです。

3 「統一原理」では、神様は無形の絶対的主体として、二性性相の中和的主体としていらっしゃるお方だといいます。二性性相としていらっしゃる神様御自 身の分性的実体としてアダムとエバを造っておき、彼らが成長して愛を中心として横的に連結されるとき、縦的な立場で中心になろうとしたのです。それはアダ ムとエバが成熟すれば、神様の男性性稟はアダムの心の中に、神様の女性性稟はエバの心の中に入っていくということです。だからといって、神様が分かれるの ではありません。二性性相の主体としていらっしゃる神様なので、アダムとエバの心の中に臨在することができるのです。

4 主体と対象は、どこから出てくるのですか。これらが出てくる土台がなければなりません。「統一原理」では、これを二性性相と言います。この主体と対象 は、人間自体から造られた主体と対象ではありません。力自体は作用をするのです。作用しようとすれば、その力を作用させる回路がなければなりません。その ように授け受けできる道がなければ、力は作用できません。皆さんの心臓も、動脈、静脈のような循環器官があるので作動します。このようにあらゆる作用は、 必ず主体と対象の相応関係を備えなければなりません。力が存在する以前に、主体と対象がなければならないということです。主体と対象が存在するためには、 その土台がなければなりません。

5 宇宙全体を見れば、愛と関係を結ぶようになっているので、鉱物世界を見てもそこにプラスとマイナスがあり、植物世界を見ても雄しべと雌しべがあり、動 物世界を見ても雄と雌がいて、人間世界を見ても男性と女性がいて、天と地があります。ですから、神様も、それ自体において二性性相の存在としていらっしゃ り、その二性性相というプラスとマイナスが和合しているとともに、二性性相の中和的存在であり、格としては男性格なのです。

6 神様の性相的な結実者、見える実体として生まれたのがアダムでありエバです。二人が一つになるということは、神様の性相と形状が初めて愛を中心として 一体になれる基準ができるので、それを中心として心情圏が始まるのです。それが家庭的心情圏を中心として氏族的な心情圏に拡大します。そうすると、アダム とエバ自体が心情圏において個人的な心情圏、家庭的な心情圏、国家的な心情圏の代表者になります。アダム一代で、すべてのモデルが形成されるのです。個人 的なモデル、家庭的なモデル、国家的なモデル、心情的なモデルがすべて成立できたということです。

7 神様は、なぜ人間を創造しましたか。「私」がなぜ生まれたのかという根本問題を知らなければなりません。神様は愛の主体です。「統一原理」を見れば、 神様は二性性相の中和的存在とありますが、愛を中心とした統一的存在だということは、まだ話していませんでした。そこに、愛を中心として統一的存在だとい うことを添付しなければなりません。

8 「統一原理」で神様を二性性相の主体としていらっしゃるお方だと言うのは、科学的な分析結果により、間違いなくそのようでいらっしゃるという事実を 知って言うのです。ですから、主体と対象が完全に一つになれば、神様の力がそこに永遠に存在します。主体がなく、対象がない所には力が存在しません。神様 は、どのように存在するのですか。神様自体内にある主体と対象の力が授け受けすることによって永存します。これは理論的に神様を説明するものです。

9 神様の二性性相の第一性のあらゆる理想的要素と、神様が想像し、構想していたあらゆる実体を形状化させたものが男性です。この男性が愛の理想として結 実するときは、この宇宙の存在世界の男性圏が結実するのです。この男性圏は、誰によって結実しなければならないのでしょうか。人類の先祖である真の父にな るべきアダムによってです。アダムによって結実されるものでした。そして、女性圏は、エバによって結実されるものでした。この二つが一つにならなければな らなかったのです。ですから、女性は男性に出会わなければならず、男性は女性に出会わなければなりません。出会って一つになり、そこから子女が生まれてこ そ、平面に神様が着陸されるのです。

神様の体になるアダムとエバ

10 神様が万物を創造された目的とは何でしょうか。第一に、神様に体がないからです。体をまとわなければなりません。堕落しないで完成したアダムとエバが愛で 完成し、神様の内的な形状を表面化させて実体として現すためのものが、アダムとエバの完成の理想です。神様の体がなければなりません。体がある世界を支配 しようとするので、そのようにしたのです。それから第二に、繁殖基盤が必要だからです。縦的な霊界に行っては繁殖がありません。縦的な愛を中心として、垂 直点に連結されるからです。縦的なこの軸では繁殖できません。繁殖しようとすれば、平面的な面において空間が必要です。平面と三六〇度を中心として球形に なっているので、膨大な空間が必要です。ここにはいくらでも生産できる面積があるので、地上で子女を生み、天の国に行かなければなりません。繁殖が必要 だったので、天の民を扶養するためにアダムとエバの体が必要だったというのです。第三に、愛の相対を永続させるためです。神様は、アダムとエバだけを造っ ておいて愛すればよいでしょうか。一代で切れてはいけません。これを永続させるために、血統を通して神様の愛の相対を永続的に残すために、体が必要なので す。

11 アダムとエバを中心として霊肉両面の世界を、すなわち無形実体世界と有形実体世界を主管することが神様の人間創造の目的です。したがって、一つの人 格的な神様として現れることを示すために、神様はアダムとエバという実体と関係を結ばなければなりません。アダムとエバの完成とともに神様の形状完成、す なわち形が完成するのです。神様はアダムとエバを造られる時、その形態、人相、人格などが、無形世界の中心にいる神様のような姿にならなければならないと いう考えをもっていらっしゃいました。形がなければ形の世界を主管することはできないのです。

12 無形の神様は、体がありません。体をもたなければ、霊界や地上世界を治めることはできません。神様が現れるためには、体をまとわなければならないので すが、その体をまとう代表がアダムとエバです。堕落していないアダムとエバの体をまとって現れるのです。ですから、アダムとエバは、人類の始祖であると同 時に、天地を主宰する神様になるのです。実体をもった神様、すなわち永遠の無形世界の神様の形状を代わりにまとって現れた立場、父母の立場で世界を統治す べき責任がアダムとエバにあったというのです。アダムとエバを造ったのは、アダムとエバの形状を手に入れて、霊界と肉界を連合させるためです。

13 神様には体がないので、皆さんが霊界に行っても、神様を見ることはできません。神様は体をまとっていませんでした。ですから、体が必要です。体をもっ た万物を創造された神様は、御自身も体をまとってこそ万宇宙の主人になるのです。真の父母の体をまとうことによって、見える世界と永遠の世界の中心にな り、父母になり、王になり、平和の主人公になることができます。

14 神様は無形で形体が見えないので、形体をまとって現れなければならず、また、形体をもっている人間と万物を主管するためには、アダムとエバの形体をま とって現れなければなりません。そのようになれば、アダムとエバと神様が一体になるので、アダムとエバの心のようなお方になるというのです。アダムとエバ の心の位置に神様が臨在して一つになったので、結局は、アダムとエバの内的な主人、内的なアダムとエバのようなお方が神様だったというのです。神様とアダ ムが一つになり、エバと神様が一つになってアダムとエバが夫婦になれば、結局、内外の夫婦のような立場に立つようになり、そこで愛し合って子女を生むよう になれば、神様の直接的な血統に連結されるのです。それを結ぶのが愛です。神様が天地万物を、この世界を創造したのは、神様御自身が愛を感じるためです。 神様御自身が愛そうとして創造したのです。

15 アダムとエバは、神様の体です。また、神様の愛の対象者です。一人では愛することができないのです。いくら絶対者でも一人ではできません。ですから、 この被造世界を造ったのは、愛する対象圏を準備するためです。被造世界は愛の博物館であり庭園です。

16 無形の神様が一人でいて何をするのですか。見えない神様だけでは何も始まりません。私たち人間の父母になろうとすれば、体をもって感じることができな ければなりません。このような人間と同じ体をまとうために、やむなくアダムとエバを二重的存在として造らざるを得ませんでした。なぜ二重構造に造らざるを得なかったのでしょうか。無形の神様と同じようにするために、心と体が一生を経て、あの世に行く時までに一つになったという基準 を立てなければならないからです。それができずにあの世に現れれば、その形状が神様と一つにならないのです。実体的王権をもった父母が、無形の父母である 神様と一体になり、永遠の天上世界に体をまとった王権を顕現させるために、アダムとエバを二重構造で造ったというのです。また、神様が体をまとうためにア ダムとエバを造ったというのです。

神様の聖殿として創造した人間

17 神様もアダムとエバと連結しなければ、世の中と関係を結ぶ道がありません。アダムとエバと関係を結んでこそ、アダムとエバの息子、娘と関係が結ばれま す。それは自然に結ばれるのです。神様が人を造った理由は、同じ父母の立場に立つためであり、体をまとうためです。ですから、外的な神様はアダムとエバで す。アダムとエバを男性と女性の二性性相をもった分聖殿のようにしておいて、神様がそこに入るのです。神様が入って作用してこそ、アダムとエバの二人が理 想的な作用をするのであって、神様が作用できなければ、神様のみ旨も何も分からないというのです。そうでなければ、神様が人間と関係を結ぶ基盤がないとい うのです。

18 神様は、無形の神様なので、どこにでも通じることができます。ですから、どこでも行けない所がありません。すべて通じるというのです。それでは、神様 は、どこで暮らすのでしょうか。神様が暮らす家は、私たちの心の真ん中です。男性の心には神様の男性格の心情がとどまり、女性の心には神様の女性格の心情 が入って暮らすというのです。したがって、本来の人類の先祖であるアダムとエバは、見える神様です。ですから、アダムが名前をつければそのようになり、ア ダムの願いはかなわないことがなかったということです。

19 アダムとエバが堕落しなければ、神様はアダムとエバの心の中にいらっしゃるのです。アダムとエバは、外的夫婦であると同時に、内的な夫婦です。した がって、神様と内外で一つになった体から生まれた息子、娘は、誰の息子、娘でしょうか。外的神様の息子、娘になると同時に、内的神様の息子、娘になります。コリント人への第一の手紙第三章十六節に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」という内容があります。 人間は神様の聖殿であり、人間の心の中に神様のみ霊が臨在していらっしゃるということです。人間がそのような立場にあるので、神様は人間にとっては正に父 になります。それができなくなってしまったのが人間の堕落です。

20 私たちの体は聖殿です。神様が臨むことのできる家です。皆さんが神霊的な世界に入って「神様!」と言えば、心の中から「どうした!」と答える体験をし て、初めて分かるようになります。そのように尋ねれば、天から答えが来るのではなく、「私」の心から答えが来ます。本来、アダムとエバが堕落しなければ、 神様がアダムとエバの本心の奥深くにいらっしゃって、アダムを操るのです。ですから聖書を見ると、「アダムが名をつけたとおりになった」と言ったのです。

21 「アダムは神様の実体であり、体は神様の聖殿だ」と言いました。神様は、アダムの心に臨在している見えない父です。この二人の父が一つになります。一 体になるのです。ですから、無形世界と有形世界の一体の基点がアダムの本性的基準です。その本性的基準は、お金の包みや欲の包みではありません。純粋な思 春期を通してあらゆる細胞機能が総動員され、一つの触覚として、アンテナとして現れたその基準を中心として、神様がそこに臨むことによって定着するという のです。神様がアダムの心に来て内的父となり、アダムは外的な父として霊的世界と実体世界の和合一体の基準で、一人の男性を中心として一人の女性と横的世 界で一体になることによって、愛を中心とした球形が生まれるのです。

神様と被造世界の関係

22 人間は神様に似ています。神様は絶対的な主体なので、絶対的な対象の愛を中心として一つになることができます。それで、神様は主体と対象の中和的主体 として、人を造るときにアダムとエバを造りました。その全知全能の愛の力には、何であっても許諾されないものがありません。神様がアダムとエバを創造した のと同じように、人間も創造の能力を賦与されるのです。神様から創造の能力を賦与され、私たちも人を創造できる位置が息子、娘を生む位置です。結局は、神 様と同様に人を造ったという位置に、人間も立つことができるというのです。

23 神様が遍在するので私たちも遍在したいと思い、神様が全知全能なので私たちも全知全能でありたいと思い、神様が唯一無二なので私たちも唯一無二である ことを望むのです。これが似ているということです。それでは、神様は、御自身の何に似れば最も喜ばれるのでしょうか。遍在より、全知全能より、唯一無二よ り、愛に似ることを一番喜ばれます。愛に似ることによって、神様と一番似るようになるのです。その愛さえ似るようになれば、何であろうと、すべてを失って も、結局は自分自身が行くとおりに、みなついてくるようになっています。

24 私たちの周囲において、私たちも知らないうちに繰り広げられている天下の万象が、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。神 霊的な境地に入ってみると、小さな砂一粒にも宇宙の道理が入っていて、一つの原子にも無尽蔵の宇宙の調和が入っているということが分かります。存在するす べてのものをよく知ることはできませんが、ある複合的な力を通して現れた結果であることは否定することができません。分子を越えて原子、原子を越えて素粒 子のようなものは、無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在するのです。したがって、存在するすべてのものは、神様の愛のみ手を通って 出てきたものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在しているというのです。

25 天地万物は神様に似ています。万物は神様に象徴的に似て生まれました。人は神様に形象的に似て生まれました。神様を中心として、人は形象的に似て生ま れなければならず、万物は象徴的に似て生まれなければなりません。神様が造られたとすれば、そうでなければなりません。神様は、神様の法度を中心として永 遠の愛を備えた、全知全能で遍在するお方として存在されるのです。


第三節 愛で創造された神様

1 神様が存在するための起源とは何でしょうか。全知全能ですか。絶対的権限ですか。一人でいるのに、絶対的権限があっても何かできるでしょうか。神様の本 質とは何かという問題が重要です。それが愛です。「私のために生きなさい」という愛ではなく、人のために生きようとする愛です。

2 神様は全知全能であられ、遍在されるお方として、惜しむものがなく、もっていないものがありません。すべてのものをもっていますが、そのすべての価値よ りも貴いものとして立て、誇りたいものがあるとすれば、それは何でしょうか。神様は、ただ愛のほかは何も必要でないというのです。愛以外は必要ありませ ん。

神様にとって絶対に必要なもの

3 神様が最も好むもの、人間が最も好むものとは何でしょうか。真の愛です。それは異議がありません。聖書でも、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この 世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・一六)とあります。ですから、神様が最も好むも のが、自分を犠牲にして怨讐を愛する真の愛だというのです。兄弟が愛で一つに結ばれ、神様に親孝行できる孝子、孝女にするのが神様の願いでした。それで聖書には、人間として守るべき戒めの中で、最初の戒めについて 語られています。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二 二・三七、三八)とあります。神様が最も好むものとは何だというのですか。お金を好むのではありません。知識を好むのではありません。権力を好むのではあ りません。真の愛です。自分の心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、すべてのものを尽くして神様を愛することが第一の戒めです。そして、自分を愛す るように隣人を愛することが第二の戒めなのです。

4 天地を創造した天地の大主宰であられる主人の立場にある神様にとっても、必要なのは絶対的な愛です。大宇宙とも取り替えることのできない絶対的な真の愛 を必要とするのですが、その愛をどこで探し出すことができるのでしょうか。神様御自身では探し出すことができません。自分の心に愛があっても、一人では探 し出せないのです。愛は、どこから来るのでしょうか。自分自身から来るのではなく、相対から来るのです。相対がいなければ愛を探すことができないので、そ の愛を探し出すためには、相対のために与えなければなりません。相対のために与えなければ、愛の道を求める方法がありません。

5 神様が最高に喜ぶためには、どのようにしなければならないのでしょうか。神様は、お金を願うのでもなく、知識を願うのでもなく、権力を願うのでもありま せん。そのお方は、全知全能のお方であり、創造の能力をもっていらっしゃるので、そのお方には欠如したものがありません。しかし神様にも、たった一つ必要 なものがあります。神様にも愛が必要です。愛が必要なのですが、一人では愛することができません。相対が必要です。このような点から見てみるとき、愛のた めに宇宙を創造したと結論づけることができます。

神様はなぜ創造されたのか

6 神様は、なぜ創造したのでしょうか。神様も愛が必要なので創造しました。神様は、愛のために天地を創造したというのです。愛の相対が必要で、愛の相対を 求めるためです。そのような神様なので、絶対的に自分のために生きなさいと、「私のために生きなさい」という愛し方はしません。神様も、愛の相対は自分よ り優ることを願うというのです。神様が一〇〇〇パーセントをもっているとすれば、一〇〇〇パーセントを完全に投入しようとします。愛の相対が自分より優る ことを願うのが愛の本質であり、本性だからです。

7 神様は、愛の対象が必要で人を造りました。一人で愛することはできません。対象圏がなければ愛は成り立ちません。神様も愛が絶対に必要なので被造万物を 造り、被造万物を代表した万物の霊長として人を造ったのです。人が絶対的に必要なので、絶対的愛の対象圏の価値を与えたのです。愛を共有するために、その 対象的存在として造ったものが人間です。ですから、人間自体は神様の体です。

8 神様は、なぜアダムとエバを造ったのでしょうか。神様は無形でいらっしゃるお方なので、実体の形状をもった父母にならなければ、形状の子女を愛すること ができません。それで、体をまとうために造りました。第一に、無形の神様が体をまとうためであり、第二に、体をもつことによって震動するような衝撃が来るようにするためです。それは、言葉だけではできませ ん。一つの言葉があれば、音楽がなければならず、その音楽に合わせなければなりません。この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。第三に、神様は中心軸を もった垂直の父なので面積がありません。神様御自身を中心として見てみるとき、一点しかないこの軸には繁殖の根拠地がありません。なぜ体が必要なのかとい うと、東西甫北の三六〇度を中心として面積が必要だからです。

9 神様は、真の愛の本体としていらっしゃいます。神様も、愛を体恤するためには相対が必要です。それは、愛が主体と対象の関係、すなわち相対を通して関係 を結んでこそ可能な経験であり、喜びだからです。どのような存在も、一人で孤立していては愛を感じられません。神様の創造の動機は、真の愛と、その対象で ある真の人を創造することです。神様は、神様と自由に愛を与え合う存在として人間を創造されました。人間は、神様の完全な愛の対象体として造られました。 人間は、神様の息子と娘です。創造主、神様は、人間の真の父母であられます。神様は、アダムとエバが真の愛を中心として純粋に成長して、真の人になること を願われました。

10 神様は、絶対者であるにもかかわらず、何が慕わしくて創造したのでしょうか。黄金や知識も必要ない全知全能の神様が、備えていないものがない神様が、 何が必要で人を造ったのでしょうか。創造の根本動機とは何でしょうか。それは権力でもなく、知識でもなく、お金でもありません。神様には愛の基盤がなかっ たのです。神様も一人では愛することができません。ですから、天地創造の動機は愛です。

11 神様は、なぜ天地を創造されたのでしょうか。その絶対者が、全知全能のお方が、何がないために人を創造されたのでしょうか。愛のために創造しました。 愛は相対がいなければ現れません。相対がいないのに作用するようになれば損害が生じます。すべて自分を保護するようになっています。損害が生じる所では絶 対に動きません。愛は、相対が現れれば、ないように思えても飛び出してきます。神様にも愛がありますが、男性的な神様が静かに一人でいる時には、その愛が 現れません。これを現してみせることのできる相対が人間です。

12 神様が人を造ったのは、愛を成就するためです。その愛は、神様から始まるのではありません。相手から見いだされるのです。相手がいなければ探し出すこ とはできません。ですから、神様が最高の貴いものを成就させるためには、相手が必要なのです。神様も相手がいなければなりません。それで相対を造られたの です。神様御自身も、相手から絶対的な愛を成すことができるように相対を訪ねていくのです。ですから、神様も愛のために存在するというのです。それが愛の 驚くべきところです。神様も人のために存在し、人は神様のために存在します。ですから、真の愛は、ために生きるところから始まるのです。

13 本来、人間はどこから生まれたのかといえば、神様の愛から始まりました。愛ゆえに生まれました。愛が起源です。人間が受け継いだその生命が貴いのでは ありません。神様の愛の理念を通して生命が現れたので、生命の前に愛が先です。愛に根ざして私たちの生命が流れてきたというのです。それで愛で生まれ、愛 で青ち、愛の相対に出会わなければならないのです。

喜びと愛のための創造

14 神様は、絶対者であり、唯一無二のお方です。しかし、そのお方がいくら偉大だとしても、一人でいらっしゃるのなら喜びや楽しいことはあり得ません。一 人では楽しみがなく、絶対に喜びがありません。例えば、世界に二人といない法学者や世界のあらゆる権力をもち、一言で世界を二転三転できる権威をもった人がいるとしましょう。そのような立場にいる人で も、一人でいては喜ぶことができません。いくらそのような立場にあっても、喜ぶことが一つもないというのです。

15 神様は、なぜ天地創造をしたのでしょうか。「私のような男性、私のような女性を、見えない性相から実体的形状に展開させ、その生命たちが動き回るのを 見るのが好きで造ったのだ」ということと、「動き画るのを見るのもよいが、この二つが一つになって伸び、くるくると転がるのを見たかった」ということとで は、どちらが楽しいでしょうか。結局は、愛し合うのを見たいと思って造ったというのです。互いに競い合う男性と女性を見たいと思うでしょうか、互いに愛し合う男性と女性を見たいと思うでしょうか。愛のほうです。創造の出発の動機は愛です。この 宇宙もやはり、愛のために形成されたのです。ですから、神様が創造の存在世界の前に現れるようになるとき、愛の本質として現れなければならないというのは 最も理論的です。

16 神様は、絶対者であり、唯一無二であられるお方なのに、なぜ宇宙を創造されたのでしょうか。絶対的な愛であり、生命であり、理想をもっていらっしゃる 神様ですが、そのすべてのものを一人では実現することができません。ですから、いくら偉大な神様でも、一人では愛や理想の実現があり得ないので、その愛と 理想を実現するためにされたのが宇宙の創造です。神様がなぜ人間を創造するようになったのかというと、神様が喜ぶためにお造りになったということです。一 人でいては喜ぶこともないので、相対理想の実現のために創造したという結論を下すことができます。

17 神様がなぜ天地創造をされ、なぜアダムとエバを造られたのかというと、喜びのために造りました。神様が喜ぶために創造されたのです。アダムの中に神様 が入って無形の父になり、アダムが有形の父になるようにしようとされたのです。ですから、アダムは実体をまとった神様にならなければなりませんでした。それでは、神様はなぜ実体を必要とされるのでしょうか。御自身が造った実体世界は、無形では主管できないため、実体をまとった神様が必要だからです。それ で実体の神様として造ったのがアダムとエバです。ですから、アダムとエバは神様と一体にならなければなりません。

18 絶対者が創造した天地間の創造物自体も、絶対的な価値をもつことはできなくても、絶対者と離れることのできない相対的価値をもつためには、その絶対者 を中心として「相対的絶対」の位置を求めなければなりません。言い換えれば、お一人しかいない絶対者に造られたという事実は、「相対的絶対」の型を備えた 存在であるに違いないというのです。ですから、絶対者自体だけでは喜びを得ることはできません。喜びは一人で成り立つものではないからです。

19 神様は、人間を造るためにあらゆる万物を造ってこられました。最初の日から造ったその万物を御覧になるとき、無限の願いと無限の希望をもって喜ばれま した。そして、このすべての万物の主人として、神様の代わりに万物を主管する主人として私たちの先祖であるアダムとエバを造られたのです。それから、無限 に喜ぶ心情で彼らのために祝福されたのです。彼らに「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」とおっしゃいました。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地 を従わせよ」という祝福のみ言を人間に下さったのは、神様を喜ばせることが目的で人間が造られたという意味です。神様は、このような目的を成すために、私 たちを祝福されたのです。


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